Ⅳ 河川敷
- RICOH RICOH
- 2024年12月24日
- 読了時間: 5分
河川敷―
自宅兼スタジオがある町から電車で一本
駅から少し距離があるが、運動不足解消にはちょうど良い散歩道
進んでいくと、物々しいオーラを醸し出す門扉が現れる
かなり広い屋敷だが、柿の木に遮られ
中を窺い知ることはできない
屋敷の前を素通りし、すぐ目の前に広がる川原に向かう
(…けっこう、距離があるんだよな…久々に来てみたが…)
土手に腰かけ、途中の自販機で買った缶コーヒーを飲む
ひと息ついて、川向こうの景色を眺める
(…………)
倉橋 勇には、3歳から10代の記憶がない
時折、脳裏に刻まれた、わずかな光景が朧げに顔を出す
それは決まって、ここ。
大きい屋敷の前にある、広い河川敷…
記憶を失った倉橋の身に何が起きていたのかは
その後、器としてに入り込んできた悪魔の意識下に居る事で
すべて理解している
倉橋自身、失くした記憶にそれほど執着がなく、
そのことで困る事も特にないし、それ以上に、悪魔の意識下で感じ取った
新たな記憶こそが、何よりも大事な、かけがえのない宝だ
乗っ取られた身体で、その腕に抱き上げた幼い少女
膝の上で眠る、小さな手のひら…
(…フッ…綺麗になったもんだな…俺の気も知らんで…)
先日楽屋で再会した、悪魔の髪に座り微笑む女性…
ふと思い返し、笑みを浮かべる
缶コーヒーを脇に置き、ふぅっと息を吐きながら
草叢に寝そべり、青空を見上げる
「………」
失くした記憶に未練がない
それにも明確な理由があった。
イザムちゃん…あんたが降りてくるまでの間、俺の人生は最悪だった
………………
………
…
ある時、ふと気づく、不思議な感覚に襲われる
そもそも、自分が今、どこで何をしていたのか、それすら覚束ない
朦朧とした意識の中、辺りをうろつく
道順すら覚束ないなか、辿り着いたのは、教会だった
敷地の中には、身寄りのない子供を保護する施設がある
教会から出てきた女性が彼に気づき、怪訝な目で一瞥した後
驚いて声をかける
「!…君…あの時の…?」
彼女は、俺が3歳の時に一日だけ登園した幼稚園の園長だった
名前すら思い出せない俺にとって、一縷の望みだった
「倉橋 勇?」
「そう。勇くんよ。」
「………」
わずか一日の登園。その後すぐに退園させた幼児
彼女が覚えていたのは漢字だけ。読み仮名を「ゆう」と教えたのは
他意はない
(だが本当は、「イサム」だったんだ。
ま、今となっては、「勇《ゆう》」という名も悪くないけどな…)
そう思うようになったのは、ごく最近だ。
事に至る時、その名を呼ぶ百花の声を思い出し
倉橋はニヤニヤと笑みを浮かべる
失くした記憶を新たな絵物語で埋め合わせてくれる
不肖の弟子で、可愛い恋人だ
その百花を困窮させた相手………
思い当たる人物がたった一人いる
ふいに、暗い表情を浮かべる
………………
教会で出会った理事長の連絡を受け、姿を現した女
ある資産家の娘。親に言われるまま、顔も知らない相手に嫁ぎ
ろくに会話を交わす暇もなく、急な事故で主を喪い未亡人となった
彼女の手には、莫大な遺産
一生困らない金と、孤独で退屈な時間を埋め合わせる為
慈善事業に打って出た
若い芸術家のパトロンとしての愛人稼業や
身寄りのない子供を養育する保護施設の運営
金に物を言わせ、彼女の思い通りに事を進めていく
だが、外堀が立派なものをどれだけ作り上げても
所詮は張りぼての城
芸術家たちは皆、ろくな成果もあげず挫折していくし
現場に任せきりの保護施設は、劣悪な環境で
いつの間にか行方不明になっていた子供の事さえ
探し出そうとしない、評判の悪さで有名だった
向こう岸から聞こえてくるピアノの音に惹かれ
勇が施設から抜け出したのは正解だった
もれなく警察に保護され、施設に連れ戻されるが
問題児とみなし、里子として放り出された勇
里親として出迎えた家族は、裕福で仲の良い夫婦だった。
恐らくそれなりに、幸せな生活を送っていたのだろう
ただ、そんな平穏な日々も長く続かない
養母となった女は男癖が悪く、それが原因で
勇を置き去りにしたまま家を出て行く
川のそばの、ピアノの音が聞こえる家が、養母の親戚筋だと知り
小遣いをせびりに度々訪れていた
長く、どこまでも続くような土手………
倉橋の中にある幼少期の記憶は、そこで止まっている
………
施設の園長に呼び出され、向かった先で出会ったのは
精悍な顔立ちをした、立派な男性だった
どこで何をしていたのか、知る由もないが
自分の手掛けた物の中で、一番成功した作品と言える
庵野 寛子《あんの ひろこ》は勇との出会いを喜び、自宅へ連れ帰った
記憶を失くした直後の勇に他の選択肢はなく、
一時期、彼女と暮らした
だが、寛子との生活はすぐに破綻する
何事も雑な彼女の行動には、派手な騒音がついて回る
他人との距離感を意識しない性格故か
会話する声さえも、不自然にデカい
生活臭というものを嫌い、
イタリアンと焼肉と寿司は、外食する美食家だと豪語する
暇さえあれば外車を乗り回し、隠れた名店を探しに行く
羨ましいか?
体験してみれば分かる。
そんなもの、一度やれば、すぐに飽きる
なぜならば、彼女の選ぶ店も、場所も、生き方さえも
すべてが三流で、どこか味気ないのだ
寛子に悪気がないのは分かる。だが残念ながら
ひとつも共感できない彼女との生活に
縛り付けられる義務もない
勇はさっさと見切りをつけ、寛子の家を出た
そしてすぐ、悪魔の器として契約することとなり、今に至る
寛子と暮らしたのは、ほんの一時のことで
思い出す事もなかったが、改めて記憶を辿ると
インパクトとしては強烈なものだ
今頃になって、何なんだ…?
所在すら報せていないスタジオにまで押しかけてきた彼女に
警戒心を強める
…やはり、聞いた方がいいかな、悪魔さんたちに…
辺りはいつの間にか夕刻となり、いつものメロディが流れている
倉橋は立ち上がり、元来た道を戻って行く…
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