Ⅱ メアリの姉
- RICOH RICOH
- 2024年12月24日
- 読了時間: 5分
その日、食堂は一日お休みで、咲音《さと》は電車に揺られていた
自宅がある路線の中程にある駅で降りると、踏切を超えて
小さな商店街を進んでいく
この場所に来ると、待ち構える鬱蒼とした木々に
吸い込まれそうな感覚を覚える
線路沿いや商店街の喧騒はいつしか消え去っていた
重厚な門をくぐると、警備室に会釈して
奥にある赤レンガのキャンパスに足を踏み入れる
目的地は3階にある研究室
階段を昇るのも、だんだん息切れしそうになる
それでも木陰に陽射しを遮られ、建物の中はいつもひんやりしている
研究室の扉を開けると、1人の男性が振り返る
「あれ。久しぶりだね。先生に用事かな?」
「新藤さん、こんにちは♪父に頼まれた書類を届けに来たんです」
彼は随分前に学位を取得し、民間会社を設立したが
咲音の父親―山岡 晃《やまおか あきら》―とは旧知の仲で、
今も手伝いに足蹴く通う、山岡ゼミの主のような存在だ
「ごめんね…💦お嬢さんと約束してるってのに、急遽
クリニックから呼び出されてさ」
「あ、良いんですよ。じゃ、私はこれで…」
研究の邪魔にならないよう、咲音はすぐに書類を置いて
引き返そうとするが、新藤は奥に居る学生に呼びかける
「おい、お茶を用意しろ。お嬢さん、ちょっと待っててください。
一件処理を終えたら、先生戻ってくると思うし」
「いえ、お邪魔になってはいけないわ。それなら
クリニックの方に行ってみます。失礼しました…」
「ほんと?…ごめんね。じゃあ、門まで送るよ」
新藤と並んで、歩く咲音は
穏やかに笑みを浮かべながら、やや不満そうだ
「…もう…まだ迷子になるって思ってるんでしょ?
いつまで経っても子ども扱いなんだから…」
「とんでもない。クリニックまで送っていけないのが
心配すぎるくらいだけどね(笑)」
自宅にもよく訪れていた新藤は、小さな咲音を実の娘のように
可愛がってくれた。その馴染みで、2人になれば砕けた調子になる
「…でも、珍しいですね。クリニックに呼ばれるなんて。」
「詳しくは知らないんだけど、多分、あれだな。不定愁訴。
患者みずから、先生を御指名みたい」
「あら…そうなのね…」
「先生、イケメンだからねえ(苦笑)。しかし大変だよね。
本館と町医者と…」
新藤は改めて、やれやれとため息を付く
「お嬢さん、顔出してあげたら泣いて喜ぶと思うよ。」
冗談ぽく笑う新藤に、咲音はにっこり頷き、手を振る
「ありがとうございます。ここでいいわ。新藤さん、またね♪」
キャンパスを後にして、元来た道の中程にある
小さなクリニックの扉を開ける
「先生。腰が痛くて、頭痛まで酷いの。」
「風邪で発熱したからね。
しばらくの間、安静が続いたから、少し動くにも
筋力が落ちているから疲れるんだ。
最初の一歩は誰でも怖い。でも、それを乗り越えなきゃ。
君の頭痛は、ほとんど別のストレスが要因じゃないかな」
「たしかに、この前の検査では異常なしって…」
「そうだ。」
「その検査が間違ってるのよ、ちゃんともう一度、調べてよ!!
麻酔でも痛み止めでも何でも打って、何とかして!
熱が出て、咳が酷かった時は、皆して大騒ぎしてたくせに
最近は酷いのよ。話もろくに聞かないで、私が呼ぶたびに
嫌な顔をするの。こっちは病気なんだから、親切にされるのが当然でしょ?」
「…悪いが、君の数値は細かく調べている。何も症状がない人間に
麻酔を打つ事は出来ない。薬は万能じゃない。毒と同じだからね。
それより、少しずつでも身体を動かす事だ。病院の庭でも
散歩したらいい。」
「…」
対峙していた女性は苛立ちながら、プイッと顔を背ける
頃合とみたナースがすかさず歩み寄る
「お時間となりました。何もなくて、良かったですね」
女性が座る車椅子を押して、裏口の扉を開けると
大学病院の文字がデカデカと書かれたワゴン車が待機しており、
数人の職員に引き渡されていった
「山岡先生。お嬢さんがいらしてますよ」
ナースに言われ、山岡 晃は応接室に向かう
「お父さん♪」
「咲音、すまなかったね。暑かったろう?」
魔法瓶でお茶を注ぎながら、振り向く
「…アイスティーの方が良いかな?」
「ホットで良いよ。年頃の女性に冷えは禁物ですから♪」
「左様でございますか…♪」
冗談ぽく応じる咲音に、晃も笑みを浮かべる
「これ…頼まれた書類。」
「…ゼミにも行ったのか?」
「うん。新藤さんに会ったわ。相変わらず、お元気そうだね」
晃はふっと笑いながら手渡された封筒の中身を確認する
「ああ、どうもありがとう。ところで…お母さんに聞いたよ。
咲音は今、誰かとお付き合いしてるんだって?」
何気ない素振りで、物のついでに問いかける晃
(…なるほど…だから、わざわざ呼んだのね…?)
父親の真意を知りながら、言葉にはせず
咲音は黙ってお茶を飲む
「…咲音が決めた相手なら、お父さんは反対しないよ。
幸せになりなさい」
「…うん。その時は、必ず会いに来るね」
咲音の父親、山岡 晃は、母校の大学で教鞭を取り
彼の主催するゼミでは多くの学生が研究に明け暮れている
専門分野は経営工学だが、医用分野からも請われ
月に1度は本館のスポーツ医学部でも講義も行っている
両親を亡くした時、形式的ではあったが、サエと婚約をしていた
入籍寸前で婚約解消となったにも関わらず、相手の両親の厚意で
スポーツ医学部に籍を置かせてもらっている
ただ、一度は裏切る形となってしまった最愛の相手―恵―に
けじめをつける為に、実力で経営工学科の学位も取得した
その間に咲音が産まれ、娘のために晃との入籍を受け入れた恵だが
お互いに自立した生活を望み、子育てと家事を両立させながら
彼女は誠のクリニックで働き続けている
さらに、かつてスキー部の顧問だったオヤジ…小倉教授が跡を継いだ
街の心療内科クリニックで時々アルバイトをしている
患者も多種多様だ
明確な疾患がなく、既に治療を終えていても
様々な事を訴えてくる不定愁訴患者の話し相手というのが主要業務だが
年齢より若く見えて、スポーツマンタイプの晃は
主婦や子供たちからも慕われ、頻繁に呼び出されるようになっていた
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