Ⅰ
- RICOH RICOH
- 2024年12月24日
- 読了時間: 6分
柔らかな陽射しが射し込む窓辺
いくつかの資料を片手に扉を開け、レースのカーテンを閉めに行く
そっと振り返り、グランドピアノの長椅子に腰かけると
隣で譜面と対峙する女を見つめる
眩しいのではないかと気遣ったのだが、物音にも気づかないほど
集中しているのか、微動だにしない
百花《ももか》の性格は詳しく知り尽くしているし
毎度の事なので、静かにその様子を見守っていると
ふいに目を開け、ふぅ~っと息を吐く
開いた瞳の中に、目の前に居る相手を映し出す事もなく
何かを反芻しているように見える
……こんな風に、まったく相手にされず、
ひとつひとつの細かい動作を観察しているだけの時間でも
許せるのは何故だろう…
心の奥底でため息を零し、苦笑いを浮かべた時
瞳に光が戻り、ようやく気が付いた百花
「…あ…いつから…?すみません、気がつかなくて…」
それまで膝に乗せていた譜面を閉じて、奥の部屋に向かい
お茶を淹れる百花に倉橋はフッと笑う
「構わないよ…どこまで覚えた?」
「構成は覚えました。詳細はまだ…序盤…までです。
思わぬトラップがあって、何度も嵌りそうになるんです(^-^;」
「ふぅん…じゃ、こんな事をしたら、忘れてしまうか…?」
自嘲気味に笑いながら、ティーカップに香りの良い紅茶を注ぐ
百花の腰を引き寄せ、そっと口唇を塞ぐ…
甘いぬくもりに、百花は頬を赤く染めながら、
小悪魔のような笑顔で見つめ返す
「///…ふふっ 大丈夫です。序盤まではインプットを終えました。
これからは、バグを排出させるため、何度もミスをリトライさせれば良いので…」
「…ほう…では、協力してやろうな…」
キッチンの隅に置かれたソファに百花を横たえ
そのまま深い口づけを交わす…
倉橋 勇《ゆう》は声楽専門のボイストレーナーだ
未来のたまごを養成する為、スタジオに改築した自宅に招かれるのは
選び抜かれた者だけ…
彼のレッスンを履修し終えた者は皆、それぞれの世界で
目覚ましい活躍を続けている
そして、この春から新しく門下生となったのが、百花だ。
倉橋が所属するプロダクションの人間や
縁のアーティストが立ち寄る事も多く
来客用に設えていた手狭なキッチンが彼女の城となり
その隅に小洒落たソファーを置いたのは、それからすぐの事だった
「先生…んん……///」
「こら…きちんと名前を呼べ。教えただろ?」
「///…勇さん…あ、ああんっ…」
熱い愛撫に身を捩らせ、甘い啼き声をあげ続ける百花
その脳裏に、先程まで真剣にインプットさせていた
譜面から湧き上がる風景が浮かび上がる
身体的に深く繋がった時、または音譜を目にした瞬間に
リアルな立体映像として見る事ができる
それは、倉橋が持つ特殊能力だった
百花の紡ぎ出す映像は、名だたる著名な作曲家たちが織り成した
無数の絵物語…
営みを終え、倉橋の腕に抱かれながら、
入力し終えたばかりの記憶のエラーを修正していく百花
「…百花、服を着ろ。準備が出来たら、聴かせてもらおうか」
「///…はい」
倉橋の指示に、キスよりも高揚しているのが見て取れる
いそいそと下着をつけながら何度も深呼吸を繰り返す百花
「…お待たせしました。よろしくお願いします…」
………
歌い手としての百花に興味を持ったのは、彼女の暗譜能力の高さだった
一度インプットを完了した曲は、楽曲として仕上げ
演奏し、その役割を終えるまで、記憶から消滅することがない
アウトプットさせる時、彼女が脳裏に描き出すのは
手元にある譜面。五線、音符、すべてがシナリオのように動いて行く
正確なシナリオだからこそ、事に至る時、倉橋の脳裏に
鮮明な絵物語を浮かび上がらせる
………
フレーズを震わせ、歌が止む
完璧に覚えたと豪語していた序盤は、ケチのつけようがない
見事な仕上がりだった
「…良いだろう。あとは、転調してからの抑揚の付け方に
もうひと工夫あれば」
「はい…記憶が覚束ないので、私自身、歌いきれていないのは
自覚しています…💦」
「音程は何の問題もないし、あとは自由に羽ばたけば良いだけだろ?
必ずお前の歌に仕上げてみせろ。次回までの課題な♪」
ニヤッと笑う倉橋に、百花は俯きがちに口を尖らせる。
「…もう…///先生のように、なんでも自由に歌い上げるなんて
私には、まだ…」
「なんだ?俺に対する嫌味か?」
歌詞の覚えが悪いところは、自由に置き換えて
幾千の公演を難なくこなす倉橋の技は、匠の領域とまで言われている
百花のぼやきに飄々と笑みを浮かべ、髪を撫でてやる
「仕方ないだろ?その場の空気、聞こえてくるメロディ
すべてに支配され、浮かぶ風景に呼ばれる結果だから(笑)」
「むぅ…ひとつの文字を置き換えるだけでも、
普通はものすごく大変なんですよ?鼻歌じゃなく、
エンターテイメントとして昇華させるのは…💢
それをオートマチックに出来てしまう先生は、凄すぎます!!」
納得できず、プンスカと口を尖らせる百花
「はいはい。ありがとな。
だが百花の暗譜能力も、相当なものだぞ
譜面だけじゃなく、普段も、記憶力が優れているのかな?」
「…どうなんでしょう…あまり意識したことはないし
逆に、覚える事もなく忘れていく事柄の方が多いと思います」
「まあ…自分にとって興味のないことや、
意味のない事は、覚えなくても困らないもんな。
そこら辺の線引きが、ハッキリしているというか
サッパリしているというか…」
別の譜面を用意しながら、倉橋からの指摘に百花は恥ずかしそうに笑う
「そうかも…(笑)ただ最近になって気がついたのですが」
「ん?」
「覚えている事柄は、割と高い確率で…
というか、ほとんどの場合なんですが」
「うんうん」
「目で見た映像として残っているんです」
「………」
自分の事をさらけ出すとき、間違った印象にならないよう
丁寧に語ろうとする百花を、愛する女として可愛く思いながら
相槌を打ち、倉橋もまた、自身に置き換えて情報を整理する
「正確な日付とか、細かい事は忘れていても
映像とキャプチャーが常にリンクして自在に取り出せる、という事かな?」
「! そうです!仰るとおり…凄いです。さすが…(*´艸`*)」
定評のある、倉橋の頭の回転の速さに
飛び上がりそうな勢いで嬉しそうに頷く百花
「だから…先生のこれまでの舞台も、ぜ~んぶ
思い出せますよ♪でも、私より暗記力が凄い人がいて、
その人には負けるかも…」
「へえ…百花でも敵わないのか」
「過去にどんな事を話していた、とか、
私の家族の名前や誕生日とか…私自身は興味がなくて
全然覚えようともしていない事を、全部細かく把握してらっしゃるの」
「…だからといって、お前は他人のプライバシーには興味がなくて
全然覚えようとしないよな…?」
的確な言い回しに、ニコニコしながら頷く百花
倉橋も笑みを浮かべ、鍵盤を弾き始める
「…では、俺の事も、興味がない、不要な情報にされないように、
新たな記憶を植え付けよう♪」
倉橋の伴奏に、百花が歌う
百花の旋律に倉橋の歌声が重なり合う…
コメント