Ⅲ 絶対的評価
- RICOH RICOH
- 6月28日
- 読了時間: 3分
音の重なりの中に生まれる倍音
この道筋は、音階の法則で成り立つ
己の価値観や自分本位なルールだけで推し進む者は
この法則から容赦なく弾き飛ばされ
存在すら消滅させられる
その一点の光を掴み取る者
その瞳に輝きを増し、みるみる力を漲らせる
彼女の中に生まれるのは、周囲への感謝と信頼感
支えとなる多くの者の力により、大空へ飛び立つ
「…ケホッ」
静かなレッスンスタジオ
不釣り合いな乾いた空咳に、譜面の世界から引き戻された百花は
その相手に目を向ける
「…先生?」
「ああ、すまないな。ちょっと風邪気味で…」
倉橋はポーチから取り出した薬を手に、キッチンに向かう
百花には内緒にしていたが、実は数か月前に受けた健康診断で
気になる数値が出て、秘密裏に詳しい検査をしてもらった結果
初期のがんと診断された。
亮の父親、出門誠に専門医を紹介してもらい
内視鏡手術を済ませ、その他の転移有無などを徹底的に調べてもらった
今のところ、特に気になる所見はなく、日々の生活にも何ら支障はない。
ただやはり、体力は若い頃に比べれば低下していて
少しの風邪でも見過ごす事はできない
(…情けないよなあ…俺様とした事が)
レッスン室の中央に目を向ければ、再び譜面に視線を落とし
譜読みに集中している百花
(…このことが分かれば…怒るよなあ、きっと)
大事な事を何も告げずに、俺の中だけで解決させようとする行為を
裏切りだと言われれば、その通りかもしれない
(でもなあ、百花)
ちょっと前の、お前と知り合う前の俺だったら
身体の異変に気付いた時点で、生きる事を諦めていた
そんな気がする
当然、この現身は、俺だけでどうこうできる立場ではなく
アチラさんとの契約で、いつでも貸し出せるよう
維持させておく必要があるし、俺が何もしなくたって
結果は同じだった気もするが…
サムちゃんたちに相談する前に、俺自身の意思で
動いたんだぜ?
そう、誇らしく自慢話を聞かせたい。
だがそのきっかけを掴めず、ウダウダしているこの数日間
挙句の果てに風邪ひいてりゃ、世話ないな(笑)
「…!…」
ふいに、背後からスルッと手が伸びて
ぎゅっと抱きしめられる
「…なんだ、どうした?」
回された手に自分の手を重ねて、振り向こうとするも
がっちりホールドされていて、身動きできない
「…勇さん…」
「!…おい、こんな時間から可愛い誘い文句か?
だがこれじゃあ…」
そう言いながら、ホールドされている手に指をからめ
振り向きざまに抱きしめ合う
「譜読みは良いのか?」
言葉とは裏腹に、吐息がかかる程の至近距離で見つめ合う
可愛らしい恋人は、弟子ではなく女の目で見つめ返す
「…終わりま…っ…ん…」
カナリヤのさえずりのような声を遮り
口唇を貪り合う
身体の芯を貫き、ひとつに溶け合いながら
新たに仕入れたばかりの譜面から、彼女の思い描く絵物語が浮かび上がる
(…!…百花…?)
すべての懸念は、倉橋の杞憂に過ぎなかった事を
思い知らされた
ひとりの人生の一生を左右するほどの決断に、
他人が踏み入る事など出来ない
前に進むのか、立ち止まるのかさえ
相手の身代わりになれない以上、立ち入ってはいけないのだ
だけど、まだ今は、一緒にいたい
だからこそ、その決断をしてくれた倉橋に、できる限りの愛で応えたい
そして、もしも別の結果が待っているとしたら
その時は迷わず、同じ道を進むだけだ
悦び啼き濡れる百花の目尻に、強い決意の涙が光る
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